風義ブログBLOG

2014.04.20
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高齢化社会の落とし穴、二人きりで過ごす二十年

 先週の新聞に2022年、人口の1/4が65歳以上になるとの記事がありました。くるぞ、くるぞと大地震のようになるぞ、なるぞといわれてきた高齢化社会。TVやYahoo!のトピックスには芸能人のお悔やみが毎日のように目に入り、それをみなさんも実感していることでしょう。知人が高齢者を抱えている話をしているうちに、我が家でも同じような現象が起き、気がつけば自身も高齢者の仲間入りとなるのが我が国の今ではないかと感じます。高齢化社会は、私だけでなくみなさんも同じであり、誰にでもおこる逃げる事のできない事なのです。

 そこでですが、ふと思い出した文庫内容の中から一部ご紹介いたします。
★宮脇檀の「いい家」の本 PHP文庫から Ⅱ章男と女が住む家は P139〜P143
〜高齢化社会では処理せねばならない問題、または処理できないかもしれない問題が山ほどある。社会的には、高齢者に対する様々な公的、私的介護システム、年金、手当てなど金融上の処理、財源の確保、法令の整備、老人住宅、ケア施設の充実、社会的施設の整備などなどそれぞれの分野でしなければならないことが無数。
 自分の家族の問題となってみれば、老人が老人を看るような現状や、女に押し付けられがちなそうした介護を誰が助けるか、公的ケアは可能か、収入の担保はどうするかと個々にも解決しなくてはならぬ深刻な問題が重い。行動障害に対する廊下の手すりから幅員拡幅、バリアフリー、車いす対応、階段昇降機、家庭用リフト(ホームエレベーター)、入浴用クレーンといった細部の物理的処理から、家の間取り全体に対する老齢者対応が必要になるし、寝たきりの家庭介護となればそのベットを中心にした間取りから家族全体の生活を考えねばならぬ。
 こういった住まいというと建物に対する物理的な処理はどちらかといえば技術の問題。技術だから、処理することは可能。それよりも問題はそんな物理的処理ではかなえられない、人と人、家族と家族、夫婦間の心の問題であろう。どんなに優れた介護システムや機器よりも、寝たきりになった人たちに対しては手を握ってベット脇でほほえんでいてくれる、心の通う存在のほうが百倍も嬉しいことは、間違いないのだ。
 このレベルで、基本的な住宅の問題としてつい忘れがちになっていることは、家における夫婦の持つ時間の問題がある。めし、ふろ、ねるの三語だけで通用してきた夫婦は、その時間は少なく、問題を直視しなくすましてきたのだが、それがむき出しになるのだ。〜
・・・と宮脇は書いています。問題や課題が物理的なことではなく、人的なことだと訴えています。今さら改める内容ではありませんが、ひとはみずから考え、感情を持ち、意思を持って行動するという特性において物理的な問題と大きく異なるのですね。・・・
〜そうするとどうなるかというおそろしいデーターがあるから紹介しておこう。
 戦前の日本の夫婦の一生の時間の軸がある。昔は男女とも若く男で25歳まで、女で20歳というのが結婚の平均値。ただし、それから二児や三児、またそれ以上と子供を生み続ける。その期間が平均14年。最後の子供が生まれるのが夫が40歳、妻が35歳程度。それから小学校に始まる教育や修行の時代があって、末の子供が独立または結婚して家を出て行くのが父親とおなじ25歳くらいとすると、父親は65歳、母親は60歳ということになる。末子が独立するということは、基本的に家に子供がいなくなり、夫婦二人きりになるということ。戦前は寿命が短かったから、統計的には短命である男の方が先に死んで、このふたりきりの状態は9年ほどで終わっていた。
 これに対して戦後1985年のデーターではこうだ。
 まず結婚年は遅くなった。男女とも5年近く遅くても社会的に許容されるようになった。ただし、結婚してから子供を生み続ける期間がぐんと短くなった。少子化の傾向のなかで結婚するとすぐ子供をばたばたと二人または一人生んでそれで打ち止め、夫婦ともにまだ若いうちに人生をエンジョイしようという傾向が強くなったのだ。当然子供たちも早く育ち、早く独立していく。結婚しなくてもある年を過ぎれば家を出るという、ヨーロッパ風の都市型の社会に日本も変化しつつある。夫が55歳、妻50歳頃には夫婦二人きりになる。
 そして、問題はそれからだ。戦後の日本人の寿命は比較的に延びた。妻が80歳、夫が75歳まで生きるのはふつうになってきた。つまり二人きりになった夫婦が平均20年、場合によっては30年顔をつきあわせて生きていかねばならなくなるのである。夫はすぐ定年がくる。可処分所得は減って年金生活に入るとなれば、サラリーマン時代のように毎週土曜日の接待ゴルフなどとは行っておられぬし、街に出てぶらぶらするのだってやはりおかねがかかる。仕方なく家にいる時間が増える。夫婦二人きりでる。
 瞳と瞳を見つめあって、結婚後30年も愛し合っている二人ならよい、二人で手を取り合って過ぎにし人生を想いだすか、共通の趣味でも作って山に登るなり、ダンスに興じていればよいだけの話。問題はそういう夫婦の関係がこの日本ではきわめて少ないこと。
 家で会話する習慣もなければ、火事をする訳でもない。会社べったりで生きてきた人間が突然会社から放り出される。会社はそうなると縁の切れた人間には冷たい。仕方が無いから家で過ごそうと思うのだが、家での過ごし方をしらない。今までほとんど家にいなかった、興味がなかった。だからどこに何があるのかさえしらない男。話かけようにもそういう習慣は長い間つくってこなかったのだから妻からは拒否、または無視される。濡れ落ち葉状態で、それから20年、30年過ごさなくてはならないのだ。いってみれば地獄である。それが高齢化社会というものの住宅におけるもう一つの側面。
 それは仕方のないこと、自分でそうなるように自分の家族を仕組んできたようなものだから。けれど、そうなることが判っているのだから、いまから対処する方法はある。話は簡単、今から家にいる時間を増やせばよいのだ。
 早く家に帰る。どうせ役に立たない会社の愚痴をいって酒飲んでる暇があったら家に帰る。土曜、日曜の休日もなるべく家にいる。そうするとそうテレビばかりを観ている訳にもいかぬ。その代わり家のなかのことがいろいろ見えてくる。見えるということは興味を持ち始めること。あれは何だいと思うようになる、あれでよいのかと思うようになる。そう、それが始まり。久しぶりに会話が発生し、家族に笑いが戻り、夫婦の間に数年ぶりの夜が・・・・・・・とまあそこまで楽観的になっている訳ではないが。
 少なくとも今からそれをしておかないと、歳をとってから後悔するのも高齢化社会だということ。
・・・・後半はパワー文章による表現内容もありますが、宮脇はあえてこう描いたのでしょう。繰り返しますが物理的問題は構造や設備の技術力で改善されますが人的問題はそうはいかないと訴えたいのです。介護や医療、体力低下や世帯あたりの人数減だけが高齢化社会問題ではないのです。・・・・
宮脇檀(みやわき まゆみ)
1936年 名古屋生まれ。東京芸術大学建築家卒業。東京大学工学部建築科大学院修士課程修了。建築家。宮脇檀建築研究室を主宰。日本大学居住空間デザインコース教授。住宅建築を得意とし、「松川ボックス」で日本建築学会賞作品賞を受賞。1998年、逝去。

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